白沢の養蚕関係用具
登録有形民俗文化財「白沢の養蚕関係用具」
白沢地区の養蚕の歴史を象徴する「白沢の養蚕関係用具」331点が、平成20年1月18日に伊達地方の養蚕関係用具とともに、福島県で初めて国の登録有形民俗文化財に答申されました。
答申された養蚕関係用具は、卵からふ化される時に使った催青器(さいせいき)や毛蚕(けご)と呼ばれるふ化したばかりの蚕を蚕種紙から飼育箱に移す時に使った羽根ほうき。ワラダなどの飼育用具やマブシなどの蚕に繭(まゆ)をつくらせる用具、糸とり機、糸折り返し機などの製糸用具、そして蚕の安全と多収を祈願した寺社のお札などが収集されています。
今回の答申は、白沢地域の養蚕農家が使った養蚕業関係の各工程で使用する用具がそろっていて、養蚕農家の仕事と信仰を知ることができ、福島県の代表産業でもあった養蚕業の歴史を後世に伝えられるとして選定されたものです。
なお、平成20年3月13日に国の登録有形民俗文化財となりました。 この用具は、養蚕農家から寄贈されたもので、本宮市歴文化収蔵館に展示保管されています。
白沢地区の養蚕の歴史
養蚕の歴史は古く、白沢地区でいつの時代から養蚕業が始まったかは不詳ですが、阿武隈川沿岸部では、たびたびの洪水により耕地が荒廃し、その土地を開墾して桑を植えて養蚕を始めたと伝えられています。その阿武隈川流域から次第に山間部へと発展し、現金収入の重要産業として、江戸時代以来領主である丹羽氏からも奨励されてきました。
明治35年の和木沢地区の年間集繭(しゅうけん)量は約56トン、1戸あたり約108kg。明治42年の白岩地区は、約87トンと稲作を抜き圧倒的な現金収入の第1位を占めていました。
和木沢村と白岩村が合併して白沢村となった昭和30年には、養蚕農家1,106戸で生産量約148トン。最盛期の昭和50年代には2年連続で、繭の販売価格が米の販売を上回りました。
これは、本宮町に明治24年設立した製糸改良会社が生糸の委託改良や委託販売を始め、昭和8年には郡是製糸株式会社本宮工場が設立されたことにより、器機製糸が導入されたことで製糸を企業が担い、養蚕がさらに発展したことも集繭量増加の原因となっています。
その後、全国有数の養蚕地帯だった安達地方も円高による輸入繭や生糸の増加、繭価格の低落によって飼育農家数が急減しました。
平成18年度の福島県養蚕農家は125戸、安達地方は42戸、白沢地区は13戸で生産量は約56トン、販売金額はおよそ1,090万円となっています。
白沢の養蚕
石川栄さん(白岩字塩ノ崎)にお話しを伺いました。
(石川さんは、元白沢村文化財調査委員長。父親の代から養蚕業を始め、平成8年まで飼育していました。今回の登録申請にも御協力をいただき、養蚕用具も寄贈していただいています。 )
「白沢の養蚕関係用具」が国の登録有形民俗文化財の答申を受けたことは、大変喜ばしいことです。白沢地区は昔から養蚕が盛んな地域で、ほとんどの農家が蚕を飼っていました。なだらかな丘陵地帯が続く地形のため、稲作より畑作が盛んになり、昭和39年には国の農業構造改善事業で桑園造成が行なわれたことにより、養蚕の規模拡大が進められました。
養蚕は生活の基盤であり、養蚕なくしては生活が成り立たないほど盛んな地域で、県内有数の養蚕地帯であったこの地域には、東北一の集繭(しゅうけん)量を誇る農家もありました。今回の登録は、先人の努力によって養蚕が発展した歴史的な背景があったからこそ、答申を受けたと考えています。
また、養蚕信仰も厚く、他の地域ではあまり見られない「こじら講」と呼ばれる信仰があり、また、「八ッ田内七福神舞」ではひょっとこが養蚕用具のマブシを編み養蚕安全と豊作を祈りました。
今回も養蚕用具とともに、白沢地区の養蚕の歴史と文化を後世に引き継いでもらいたいと思います。